40s a Go - Go ! 〜ゴン攻めで40代

40過ぎて人生仕切り直し

10 翻訳者として採用 そして離婚はどうするか

大学で派遣社員としてしばらく働いた後、別の派遣会社から翻訳者の求人を紹介してもらうことができました。

私もやっと翻訳者として仕事ができる!

採用された時の感激はひとしおでした。

オフィスワークなんて無理なレベルのロースペックおばさんから、やっとここまで来れた。。。

ちょっと信じられない気持ちと、自分を誇らしく思う不思議な感覚でした。

紹介されたのは、外資系自動車部品会社での翻訳業務でした。自動車には全く疎かったので、車の仕組みなどの本を読み漁りました。

その前に働いていた大学では、学生や教授を始め、人の出入りが多く、いろんな人とやり取りし合う毎日でした。

業務はエントレーレベルでしたが多岐にわたり、学内をあちこち動き回り、日々目まぐるしく過ぎていきました。

しかし翻訳の仕事はそれと真逆でした。自分の席を離れることはなく、ずっと同じ場所に座ってひたすら日本語を英語に、あるいは英語を日本語に翻訳する日々でした。仕事中は皆さん静かに作業をされていて、音を立てるのも憚られる雰囲気でした。社内の人と喋る機会もあまりありませんでした。専門用語も多く、一つの文書を翻訳するのにいつも時間がかかって、間違いを指摘されることもあり、自分の力不足を痛感する日々でした。

 

あんなにやりたかった翻訳の仕事なのに、段々仕事が辛くなりました。やはり私にはまだ翻訳なんて無理だったんだと悩みました。

 

大学の仕事は楽しかったなあ、もう少し長く続ければよかったかな、と思う日もありました。

翻訳者として働き始めて半年ほど経った頃、前夫の横須賀での任期が終わりに近づき、またアメリカに戻ることになりました。

3年前、日本へ帰国した時、

「日本にいる間に離婚しよう、頑張って日本にいる間に経済的に自立しよう」と決心した私。

 

zeroco40.hatenablog.com

 

当初の目標通り、仕事を得て定期的な収入は得ることは達成しています。

しかしまだ派遣社員で、立場は安定していません。いつ切られるかわからないし、ボーナスはもちろん、交通費の支給さえありません。祝日が多い月など稼働日が少ない月は、手取りに直結するので収入は安定してるとはいえません。そして、せっかく就いた翻訳の仕事が辛く、辞めたいと思い始めていた私は、離婚を諦め夫と一緒にアメリカへ帰る、という選択肢が一瞬頭をよぎりました。

何より子供達をどうすうるのか。

子供達と離れるなんて考えられない。日本で、自分の元で育てたい。

でも日本語が上手でない子供達(子供達は日本にいる間も米軍の学校へ通っていたので、ほぼ英語しか使えない)が、父親と離れて日本にいたいと思うだろうか。父親と引き離し、日本語のできない子供達を日本に留めおくことが、彼らのためになるだろうか。

そんなことを考えると、

 

ー 離婚なんて諦めて、アメリカで生活を再開させる方が最善なのではないか? 

ー 私の心の持ちようを変えたら、結婚生活も辛くはないかもしれない。もしかしたら夫との関係も改善するのではないか? 

ー 離婚で子供達を犠牲にしていいのか?

 

毎日こんなことを自問自答しました。

すると悩み過ぎてハゲができ、そのハゲは10円サイズから、あれよあれよと大きくなり、半分に折った1000円札くらいまで拡大しました。さらに原因不明の湿疹、節々の痛み、微熱。。。体は悲鳴をあげました。

 

私は自動車部品会社を辞めました。

 

それから1週間、自宅に篭り体を休めながら、自分自身の心の声を聞きました。

 

これまでの自分、これまでの生活、夫との関係、そして子供達のこと。

 

これまで、自分は役立たずで価値のない人間だと思っていました。だから家計の管理に参加できなくても、夫に生活を管理されても仕方がないと思っていました。これまで私は、夫の前では思っていることの半分も口にできず、萎縮する日々でした。

 

もうこんな自分のままでいるのは嫌だ。惨めな気分で毎日を繰り返すのは嫌だ。

 

あの日決めた日から、やはり気持ちは変わっていません。

 

そしてこれからの自分、これからの生活を考えました。

 

生活がキツくなっても、私は自分を貶めない生き方をしよう。自分に誇りを持って生きていこう。

貯金もできた。引っ越し資金もある。

 

子供を連れて家を出よう。

 

それが私が出した決断でした。

 

決断を出した夜は久しぶりによく眠れました。そして微熱と湿疹も、波がひくようにスーッとなくなったのです。ハゲはしぶとく残っていましたが。。。